都合良く読むわたしたちへ

9月24日(日)11時~12時 第四主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 10章1~12節

イエスたち一行は、エルサレムに向かって旅をしておりましたが、ファリサイ派の人々が来て、質問をします。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」というものでした。イエスの答えによっては、窮地に陥らせるための質問でしたが、彼ら自身も疑問に思っていたことだったのでありましょう。聖書の律法の言葉の理解をめぐって様々な解釈がなされておりました。離婚の方法論に終始していた彼らに対して、イエスは結婚についてモーセ以前の創世記にさかのぼって伝え、離婚を安易に考えることを戒めました。当時、女性は所有物で、人権はなく、結婚も離婚も夫の一存で決定されていたわけですが、その律法解釈に対してイエスがくさびを打ち込んだことになりました。イエスは創世記1章27節の言葉を用いられたのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」 神にかたどって尊く造られたのは、男だけではなく女も等しく造られたのだと語られています。この言葉にはいささかの差別もありません。しかし、聖書の言葉を人がどう解釈するかによって、公然とした差別を生み出すことにもなっていきました。
イエスによって私たちは神の前に罪深い者でしかないことがあぶりだされます。でもそれは、神の前に悔い改めて救いにあずかるようになるためです。
イエスが言われた言葉は、昔のその時代だけでなく、現在の私たちの社会に対しても語りかける言葉です。なぜなら神は昔も今も同じ神だからであり、社会構造や文化は違っても、人間の本質は昔も今も変わらないからでありましょう。今日読む離婚についての議論は、当時の多くの人々にとって最も関心のあることだったと言えます。そしてこの議論から見えることは、私たち人間はファリサイ派と何ら変わらず、聖書といえどもまことに都合良く読み、解釈するものであるという事実でしょう。
イエスたち一行は、エルサレムに向かって旅をしておりましたが、ファリサイ派の人々が来て、質問をします。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」というものでした。イエスの答えによっては、窮地に陥らせるための質問でしたが、彼ら自身も疑問に思っていたことだったのでありましょう。聖書の律法の言葉の理解をめぐって様々な解釈がなされておりました。離婚の方法論に終始していた彼らに対して、イエスは結婚についてモーセ以前の創世記にさかのぼって伝え、離婚を安易に考えることを戒めました。当時、女性は所有物で、人権はなく、結婚も離婚も夫の一存で決定されていたわけですが、その律法解釈に対してイエスがくさびを打ち込んだことになりました。イエスは創世記1章27節の言葉を用いられたのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」 神にかたどって尊く造られたのは、男だけではなく女も等しく造られたのだと語られています。この言葉にはいささかの差別もありません。しかし、聖書の言葉を人がどう解釈するかによって、公然とした差別を生み出すことにもなっていきました。
イエスによって私たちは神の前に罪深い者でしかないことがあぶりだされます。でもそれは、神の前に悔い改めて救いにあずかるようになるためです。

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