イエス様と水戸黄門

2024年1月7日(日) 第一主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章19~23節

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【今日のメッセージ】

「わたしは、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。律法に支配されている人に対しては…、律法に支配されている人のようになりました。律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。弱い人に対しては、弱い人のようになりました」。本日の聖書箇所には、「なりました」という言葉がたくさん出てきます。この言葉はギリシャ語で「エゲノメン」と記されています。
「発生した」、「起こった」などの意味がある「エゲノメン」は、ある重要な出来事が生起した時に使用される言葉だと言われています。すなわちパウロは、自身が「奴隷になった」ということを、一つの重大な事件が起こったこととして捉えているのです。では、その重大な事件とは、一体いかなる質の出来事のことを言うのでしょうか。
みなさんもよくご存知のテレビドラマ「水戸黄門」。それは、天下の副将軍が庶民になりすまし、日本全国を行脚して世直しをするという痛快時代劇のことです。この勧善懲悪の芝居を見て、視聴者は溜飲を下げるわけですが、しかしこの場合、ご老公は庶民に「なった」のではありません。「化けた」だけなのです。彼は相変わらずの権力者で、最後は印籠を見せつけて力の支配を行使します。それは決して「エゲノメン」、「なった」のではなく、装いを変えただけで、巷ではよくやり過ごされている行為でしかないのです。
しかし、パウロは「なった」のです。お芝居をしてみせたのではなく、まさしく「奴隷となった」のです。どこの世界に敢えて過酷な状況に踏み入り、人に仕えること、人の奴隷となることを進んで選び取る人がいるでしょうか。全くの自由人がそのように生きるということは、通常では考えられないことであり、そのような意味で、パウロの「エゲノメン」、「なった」には、アンビリーバブルな質の出来事の生起が言い含められているということなのです。では、なぜそのような不可能なことが、パウロにおいて可能となったのでしょうか。本日はそのことを解き明かしてみたいと思うのです。

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【聖書から】

9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

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