安息日の事件簿

2021年5月2日(日) 第一主日礼拝(オンライン)

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 2章23〜28節

コロナ感染拡大で集れませんけれども、終息を願いつつ、オンライン礼拝と書面での礼拝が共に豊かに祝福されますように。さて、イエスがおられるところではどこでもまたいつでも事件が起こりました。イエスの言動は人の心を揺さぶり、その生き方を問われるように導かれるからです。しかし安息日に起こった事件はまた特別な意味がありました。ご存じのように安息日は、モーセが十戒を神からいただいたその第4戒として覚えられています。出エジプト記20章、23章、申命記5章に言葉を少し変えながら書かれています。
今日はイエスたち一行が安息日に麦畑を通る道すがら麦の穂を摘んだということが安息日規定に違反しているではないかと、ファリサイ派の人々から問われた箇所です。それに対してイエスが答えた言葉を覚えていたいと思います。
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2章27,28節)
イエスは、神を第一とすることを奨励して人々のリーダーとなっていたファリサイ派の安息日理解が、本末転倒になっていることを指摘されたのでした。すごく大切なことでも、熱心になるあまり、焦点が別のところに行ってしまって、気がつくと本末転倒になっていた…ということは、私たちの生活の中でも見られることです。 “人の子”とはイエスがご自分のことを言われる時に用いられる表現ですから、“わたし、イエスは安息日の主である」とご自分が神と同格の存在であると表現しておられます。私たちの主日は、ユダヤ教の安息日ではなく、復活の主を讃え感謝する日として礼拝に出席します。神は今日もあなたを、わたしを招いておられます。神の喜びの日に私たちが感謝をもって応答できますように。

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