嘆きの谷を通っても

2023年11月19日(日) 第三主日・こども祝福合同礼拝

宣教者 高見龍介牧師

詩編84編 2〜13節

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【今日のメッセージ】

詩編84編には「嘆きの谷」という言葉が出てまいります。実はこの言葉、口語訳聖書および最新のオックスフォード訳聖書では「バカの谷」と訳し出されているのです。この「バカ」という言葉には、英語でいう「foolish」の意味はなく、ただ、ヘブル語で「バーカー」と発音される言葉を、そのまま表記しただけの言葉なのです。「バーカー」とは、乾燥地に生える、うるし科の乳香樹「バルサム」のことであり、本来なら水が流れていてよいはずの谷に水が流れておらず、ただバルサムの木が生い茂っていただけという、「涸れ谷」の状況を表すために用いられていた言葉であったのです。
私たちの人生の旅路は、決して平坦なものではありません。山あり谷ありの連続です。そんな人生の長い旅路に疲れ果て、渇きを覚えた時、やっとの思いで見つけた水飲み場、憩いの場である谷が涸れていたら、私たちは絶望してしまいます。人々は、心に常に「幸い」を抱いて人生を旅していますが、その誰もがこの「涸れ谷」に躓き、そこで嘆きつつ力尽きてしまうのです。なぜなら、人々が持っている「幸い」は、英語でいう「happiness」であり、それは思わぬ「happening」、すなわち偶発的な出来事によって左右されて、失われてしまう幸福だからなのです。しかし、神を信じ、神と共に歩む者の「幸い」は、英語の「blessing」であり、それは、たとえお金を失い、健康を失い、物事がうまく行かなくても微動だにしない幸福であるのです。神に信頼する者は、たとえ人生における「涸れ谷」、「嘆きの谷」に陥っても、神の愛を確信しているがゆえに、そこに命の泉が湧き出ることを期待することができるのです。そればかりか、神が生きて働いておられるがゆえに、枯れた谷をも泉としてくださる奇跡に遭遇することができるのです。私たちも、人生の「涸れ谷」、「嘆きの谷」を通っても、決して失望しない本当の「幸い」、「blessing」を獲得していきたいものです。

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【宣教箇所】

84:2 万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。
84:3 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
84:4 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
84:5 いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ
84:6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。
84:7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
84:8 彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。
84:9 万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ
84:10 神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人を顧みてください。
84:11 あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。
84:12 主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません。
84:13 万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう。

 

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