2023年7月16日(日)第三主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記24章1節~27節
アブラハムからイサクの嫁探しのミッションを受けた僕は、その条件の厳しさに戸惑いを覚えます。居住地のカナンから800kmも離れたアブラハムの故郷ナホルの町に行って、そこから嫁を連れてくるということは大変困難なミッションのように思えたからなのです。なぜなら、ナホルの女性が、住み慣れた故郷を離れ、全く知らないカナンの土地に行くということは大変勇気のいることでしたし、しかも結婚相手のイサクとは一度も会ったことがない中での嫁入りとなるため、この婚礼には常に不安がつきまとい、たとえ誰であろうとも、嫁入りすることを拒否するのではないかと考えたからなのです。
それに対し、アブラハムは「主が助けてくださるから大丈夫!」と励ましてくださったのです。この言葉を受け、僕はアブラハムの腿の間に手を入れて、ミッションに遣わされることを受け入れます。しかし、僕はなぜ素直にアブラハムの言葉を受け入れたのでしょうか? それは腿の間に手を入れた誓いの儀式に、その答えを見ることができるのです。この「腿の間」とは、男性の性器のことを指しています。ここに手を入れたとは、割礼されていたアブラハムの性器の上に手を置いたということになるため、割礼の精神的な意味との関連が考えられるのです。割礼とは、性器の皮を切り取る儀礼のことですが、それは同時に、心の皮を切り取ることをも意味していたのです。これまで自分が心の中で信じてきたもの、自らの思い・思惑、人間的な常識、理性、目に見える現実だけに信頼する生き方、それら心の中に存在していたものを、心の包皮、殻を破ることで全て捨て去り、悔い改めて神の言葉とその御心のみに信頼し、服従して生きていくことを意味するものであったのです。この僕もアブラハムの割礼に触れることで、初心に帰り、こう思ったのです。「ナホルの女性がカナンの地に来ないであろうとは、自らの勝手な想像、思い込みであり、人間的な常識に支配された不信仰な発言であった…。自分も主人のアブラハム同様その割礼を受けた者として、自らの思いを捨て去り、神の愛と御言葉だけに信頼して生きていくべきではないのか!」と割礼の原点に立ち帰ったのです。さらには「主は必ずや困難な状況において、私たちを顧みてくださる。主が示された山に備えがあったように、主が示される町にも必ずや備えがあるに違いない!」とアブラハムの信仰の足跡をも同時に想起したことにより、彼には困難なミッションに立ち向かっていく力と勇気が与えられたということなのです。