本年もゆっくり歩いて行きましょう

2020年1月12日(日) 第ニ主日礼拝

宣教者 高見龍介先生

創世記33章12~17節

弟ヤコブがその狡猾さのゆえに、兄エサウを二度も出し抜くという事件を起こして以来、両者の間には長年にわたる争いと確執がありました。しかし、20年ぶりに両者が再会した時、エサウはその実直な性格のゆえに、ヤコブを快く迎え入れ、この先の旅の警護を申し出たのですが、一方のヤコブの方は、エサウのことが信じられず、彼からの復讐を恐れたため、「子どもも家畜もみな弱く、無理に旅をさせてしまうとみな死んでしまうので、兄さんどうぞお先にお進みください」と言って、かたくなにエサウの親切な申し出を拒絶したのです。この時のヤコブには、以前の彼自身にあった「欺く者」固有の不信感が甦り、血肉の愛を信じることができなかったのだと言われています。
ヤコブは以前、神顕現に与り、神と共に新しく生きる者として生まれ変わっていたのですが、ここでは相変わらず自分の弱さ(狡猾さ)を露呈してしまっているのです。しかしこのことは、私たちに慰めのメッセージを与えてくれるのではないでしょうか。それは、何度も失敗し、弱さを露呈するヤコブのような者であっても、神は決して見捨てず、なおも選び、救い、愛し続け、祝福の約束を貫徹されるという愛と赦しのメッセージなのです。土の塵から人を作られた神は、初めから人のもつ弱さ、脆さをよくよく知っておられるのです。それゆえ、私たちがどんなに失敗を重ねたとしても、私たちを壊してしまうことはなさらないのです。否むしろ、そのような者にこそ命の息を吹き込んでくださり(創世記2:7)、人間らしく生きる力を与えてくださるのです。
主は私たちを急かせたり、強いて無理やりに人生を歩ませたりするようなことはなさらないのです。なぜなら、主は私たちの弱さを熟知しているのみならず、主もまた地上の人生を歩まれ、その愛なき世界の険しさと厳しさを味わい尽くされているからなのです。主こそは、私たちの人生を私たちの歩みにあわせて共にゆっくりと進んでくださり、弱った私たちにこそ、命の息吹を吹き入れ、私たちを祝福のうちに導いてくださる方なのです。この方に万事信頼を寄せ、この方と共に2020年もゆっくりと歩いて行きたいものです。

「本年もゆっくり歩いて行きましょう①」

「本年もゆっくり歩いて行きましょう②」

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