イエス・キリストの系図

2023年12月10日(日) 第二主日・第二アドベント礼拝

宣教者 高見龍介牧師

マタイによる福音書 1章1~17節

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【今日のメッセージ】

新約聖書の冒頭部分である「マタイによる福音書」には、イエス・キリストの系図が記されています。この箇所は、新約聖書から何かしらの教訓、感銘、慰めを得たいと願って読み始める人々に対し、戸惑いと躓きを与える箇所でしかないとも言われているのです。「聖書は誤りなき神の言葉と聞いていたのに、なぜ神はこのような無味乾燥とした系図を私たちにお示しになるのだろうか?」と考え込んでしまう人たちが多くいるというのです。確かに読みにくいカタカナの人名が延々と16節まで続くのですから、その通りと言わざるを得ないでしょう。人名を読んだところで何の感動もありませんし、ただ退屈なだけですから…。ではなぜ、マタイはこのような系図を敢えて福音書の初めに書き記したのでしょうか?
その第一の理由は、ユダヤ人伝道のためであったのです。マタイによる福音書は、ユダヤ人伝道のために書き記されたイエス・キリストの記録であるのです。当時のユダヤ人たちは神から選ばれた民として、その血筋と家系の純粋性を保つことに大変な関心を払っていました。しかも、ダビデ王の血統から、彼らの「救い主」が現れるという民族信仰が、長年彼らの心の中に存在し続けていたのです。そこでマタイは、イエス・キリストがダビデの子孫であることを証明し、彼こそが旧約聖書で預言されていた神の意志の成就、「救い主」であることを明らかにするために系図を持ち出したということなのです。
第二の理由は、イエス・キリストなる神は、突然星が降るごとく私たちの目の前に現われるのではなく、人の家にお生まれになり、私たちと苦楽を共にして歩まれる神であることを伝えるためであったのです。すなわち神は、私たちの歴史の中に入って来られる方であり、私たちのありのままの日常生活(罪の現実)の中に生きて働き、私たちを日々支え、助けてくださる方であるという真理を開示するために人の歴史である系図を用いたということなのです。

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【聖書の言葉】

1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

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