心に蒔かれて育つ種

2021年7月18日(日) 第三主日礼拝(オンライン)

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 4章1〜20節

四回目の緊急事態宣言下に置かれることになり、教会に集っての活動は休止になりました。また集れる時を待ち望みつつ、御言葉によって生きる力を与えられていきますようにと願います。主イエスの今日の“種を蒔く人”のたとえ話は小さな子どもたちにもよく知られているものです。主イエスは、最初に言われた種まきのたとえを一気に20節までお話をしたのではありませんでした。一端9節で話を終えておられます。でもそれを聞いて誰が悟ることができたでしょうか? 誰も真意はわからなかったでしょう。その意味を聞きたいと思ってイエスの周りに残って尋ねた人々が、その意味を知る事ができました。そして、13節からその説明が始まり、種とは神の言葉だとわかります。良い土地に蒔かれたのではない種は育たないけれども、良い土地に落ちた種は、驚くほどの実を結ぶのだ、と言われます。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(4章20節) これをどう解釈するのかは、人に委ねられています。神の言葉を聞くだけではなく受け入れる、ということに焦点を当てる理解をすることもできますし、イエスの死と復活の出来事の後に生きる私たちなので、イエスを信じる人々の人数が祝福されて、多くのクリスチャンたちが生まれる、という解釈もあるでしょう。また、イエスを信じる人の人生が驚くほどの実りあるものになる、という理解もあるでしょう。あるいは、実らない種もあるけれども、成長して豊かに実を結ぶ種もあるのだから、神の言葉の種を蒔き続けるようにという奨励だととらえることもできるでしょう。また一方で、イエスは神の国のことについて人々に教えておられたのだから、目に見えないことの重要さを述べているとも考えられます。後にパウロが述べた言葉が浮んで来ます。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4章18節) 見えない信仰や希望、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和などが豊かに祝福されて成長して神の国の御業が実現する、ということかもしれません。

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