入エジプト記

2022年2月6日(日) 第一主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 12章10〜20節

アブラムが神様に示された地カナンに到着してからまもなく、その地方一帯に「ひどい飢饉」が起こりました。アブラムは家族の命を守る責任から、食糧や水などが豊富にあったエジプトに入っていくことを決断します。しかしこれは、神様が与えると約束してくださったカナンの地を捨てる行為であり、困難な状況下、神様に信頼せず、目に映る豊かさや物資に信頼したアブラムの不信仰から生まれた決断であったのです。
エジプト入国後、食糧を得て飢饉の難から逃れたアブラムでしたが、妻サライのことで彼の身にはさらなる命の危険が襲ってきたのです。妻のサライがあまりにも美しかったので、「エジプト人たちが彼女を奪おうとして、夫の自分を殺すかもしれない…」と彼は考えたのです。この危機に際しても、彼は神様に信頼せず、自らの知恵に信頼して、妻サライとの関係を「偽証」することにしたのです。つまり、サライのことを正直に自分の妻とは言わないで、妹と偽ることにしたのです。そうすれば、「自分はきっと麗しいサライの兄上ということで殺されずに済むし、むしろ丁重な扱いを受けて厚遇されるに違いない!」と考えたのです。しかし、この偽証の結果、サライはエジプト王室に召し入れられることになり、アブラムの思惑通り、彼の命は保証され、その処遇も恵まれたものとなったのですが、肝心な神様の人類救済計画がないがしろにされることになってしまったのです。もし、このままサライがエジプト王室に入ってしまえば、もはやアブラムに世継ぎは生まれてきません。それですと、アブラムの子孫によってもたらされるはずの神様の人類救済計画も頓挫してしまうことになるのです。ですから、今回のアブラムの行為は、自己保身と自己利益のための、その場しのぎの行為だったのであり、神様の全人類救済計画の約束をも反故にしかねない、彼の不信仰から生まれた大変浅はかな行為であったのです。
このようなわけで、神様に背を向け、自らの罪により、底なしの泥沼にはまったアブラムでしたが、それでも神様は、彼への祝福と人類救済のご計画を反故にすることはなさらず、エジプト王室からサライを救出されたのです。私たちもアブラムのように目に映る豊かさや自らの知恵に信頼し、神様に背を向けて罪に生きてしまう者ですが、それでも神様は、主イエス・キリストにおいて私たちと結んでくださった「十字架と復活」の契約のゆえに、私たちへの祝福と人類救済の意志を止められないのです。この恵みに与って、私たちもアブラムのように約束の地に立ち帰り、主への真の信頼に歩んでいく者になりたいと思います。

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