生きることはイエスキリスト

2019年8月18日(日) 第三主日礼拝

宣教者 鶴ケ谷芳昭神学生

フィリピの信徒への手紙1章21節~30節
21節は共同訳ですと「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」となっています。本田神父の訳では「生きることイエスキリスト、死ぬことはもうけものです。」としています。なぜ死ぬことが「もうけもの」なのでしょうか。
この手紙を書いたのはパウロと言う人です。パウロは敬虔なユダヤ教徒であり、キリスト教徒を捕まえる役目を行っていました。ところがダマスコの途上、イエス様の啓示を受け、回心し、キリスト教徒として立ち、ローマやギリシャの人々にイエス様を宣べ伝えるようになりました。
パウロは自分がどのような状態にあっても、たとえ牢屋の中にあっても、回心させてくださったイエス様を喜びをもって宣べ伝えています。そして、キリスト教の信徒と共に喜び、共に悲しみ、共に怒り、歩んでいます。パウロにとってイエス様は留まることがありません。
パウロを回心させたイエス様はパウロだけでなく、わたしたちにもイエス様を宣べ伝え、信仰を常に新たにして行くことを望んでいます。
今の教会、少々の不満はありますが、居心地よく、礼拝にだけ出ていれば満足、教会の御用なんてとんでもない。つまり、自分の信仰は守っているが、教会のミッションであるイエス様を宣べ伝えることに疎くなっていませんか。イエス様はいつも信仰の原点に立ち返り、イエス様を教会の外へ伝えていくこと、まず身の回りの人にイエス様を発信していくことを求めています。
わたしたちはイエス様と共に歩み、イエス様を宣べ伝えていく、言い換えると日々の回心をイエス様から求められており、それはわたしたちが大切にすべきものなのです。

 

 

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