「復活」が意味するところとは?

2023年4月9日(日) 第二主日イースター・昇天者記念礼拝

宣教者 高見龍介牧師

マルコによる福音書 12章18~27節

芥川龍之介の短篇小説に『俊寛』というのがあります。鬼界が島に俊寛のほかに二人が流されたのですが、そのうちの一人、成経という男はいつも考え込んでは、「ああ、この島には桜も咲かない」と言い、火山の煙を見ては、「ああ、この島には青い山もない」といつも嘆息し、そして悲しげに首を振りながら、「ああ、都に帰りたい。ここには牛車も通らない」と嘆いていたのでした。主人公の俊寛は、こういう成経を、「何でもそこにあるものを言わずして、無いものばかりを並べたてる男である」と批評しています。しかし、よく考えてみれば、私たちもこの哀れな成経とどこか似かよっているところがあるのではないでしょうか。なぜなら、私たちも何でもそこにあるものを言わずして、無いものばかりを心の中に漠然と描き、現実の今を晴々しく生きて行こうとはしないからなのです。
青年は、自分の現在に不満を抱くと、未来にこそ自分の幸せがあることを信じてひたすら空想にふけります。また、夢みることができなくなるほど老いた人間も、「昔は何と良かっただろう。あの時にはあんなことがあって、こんなこともあって…、でも今はなんと惨めなのだろう」と現実を嘆き、過去の思い出にふけるのです。青年は前向きに、老年は後向きという違いはありますが、人間というのは、今現在を生きないで、未だ来ない時や、すでに過ぎ去った時の中に生きる「空想的な生」の中に生きてしまうものなのです。
高木幹太著 『共感する魂』より
イエス様はこのような「空想的な生」に対して、はっきり「ノー」と言っておられます。そして「あなたがたは非常な思い違いをしている」とまでおっしゃられるのです。なぜなら、聖書の伝える使信は、「現在の今を、神の愛に包まれて精一杯に生きる」ということに他ならないからなのです。

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