2022年9月18日(日) 第三主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 18章1~15節
ある日アブラハムのもとに3人の旅人が訪ねてきました。アブラハムはこの旅人たちを慇懃な態度で迎えます。まず①走り出し地にひれ伏して丁寧な挨拶をし、次に②足を洗って差し上げ、そして③たいへんなご馳走(パン菓子・子牛の料理・ヨーグルト・飲み物)を振舞い、アブラハム自身も側で仕えたというのです。ここは五つ星ホテルか? と思わせるほどのすばらしいアブラハムの「おもてなし」ぶりです。
この旅人たち、実は主の使いであったのですが、アブラハムはこの時、彼らが主の使いであることに全く気づいていなかったのです。もしこの人たちが主の使いであることを知っていたのなら、このような慇懃な態度をとることは当然のことだったでしょう。けれども、彼はどこの馬の骨とも分からない者に対して、このような丁寧で心のこもった「おもてなし」をしているのです。では、彼はなぜそのような「おもてなし」をすることができたのでしょうか? それは彼の心の中にあった愛が豊かに培われていたからであり、彼の愛そのものが、自分以外の人を労わるという奉仕の形となって現れていたからであるのです。
アブラハムは創世記17章まで、神に対して数々の罪を犯していました。しかし、彼は全能の神との対話、言葉のやり取りを通して、自らの罪が全て赦されていることを知ったのです。またそればかりか、自分の家族(サラやイシュマエル)までもが神の赦しと愛と慈しみの対象とされていることを知って、彼の心には真の悔い改めと神に対する真の信仰が生まれたのです。その証しが「割礼」であり、彼はそれまで自分の心の中を支配していた思惑・信念などの包皮を全て切り取り、主のみに信頼して生きる契約の民(神の民)となったのです。そして今回、この「割礼」によって新しく生まれ変わった彼の生き様が、この旅人に対する慇懃で心のこもった愛という「おもてなし」の形となって現れたのです。すなわち、アブラハムの旅人に対するこの従順な態度というものは、彼の心の中に働きかけてくださった全能の神の大いなる恵みの結果であったということが分かるのです。