2022年3月13日(日) 第ニ主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 13章1〜18節
「私たちの現実はそんなに甘いものではなく、結構づくめではない。どす黒い深淵こそ私たちの立っている現実である。しかし注意していただきたい。聖書が『見よ』とまず語っていることに。『見よ』とは、現実を見よ、ということではない。現実は見よと言われなくても見えている。『見よ』とは上を見よ、ということ、神を見よということである。どんな今であり、どんな今日であろうとも、上を仰ぎ見よということである。その時私たちは、私たちの救い主なる主を拝することができ、それによって、どんな現実も愛なる神のうちにあることを知ることができるのである。」 榎本保郎著 『今は恵みの時』より
私たちの現実は問題だらけです。神を信じ、神から愛されているはずなのに、苦しみが多く襲いかかってきます。この苦難の現実を前にしては、一体どこに祝福があるのだろうかと、私たちは神の愛を疑ってしまうものなのです。
アブラムも神と出会い、神の招きに従ったがゆえに、彼の人生は、常に神の祝福のうちにあって、順風満帆なものになることが予想されていました。しかしそれなのに、彼の身には次々と難問が襲いかかっていったのです。彼は当初、困難に負けて、失敗をくり返しますが、それでも神の赦しと救いに与り、信仰の基盤を作り上げていくことができたのです。そしてその信仰は、甥のロトと離別せざるを得ない最も困難な状況の時、土地選択の優先権をロトに譲り、自らは不毛の地、困難な環境をあえて選び取るという形で実を結ぶことになったのです。それは困難な現実だけに目も心も奪われ、それらを恐れてそこから逃避する道を選んだのではなく、この苦難の中にこそ主が生きて働いてくださることに信頼して、現実の苦難を全て受容していった真の信仰と呼べるものであったのです。この信頼に生きた時、アブラムは「見上げてごらん!私が共にいるから!安心していきなさい!」との語りかけを聞き、この神からの恵みの言葉、神の臨在に励まされて、それまで抱いていた主への信頼が確信へと変えられていき、より霊的に成長していくことになったのです。そしてこれこそが、神の祝福のうちにあるということなのです。神の祝福のうちにあるということは、必ずしも物質的、身体的豊かさの中に、私たちがおかれるということなのではなく、いかなる窮乏や困難の中にあっても神の愛に包まれているということであり、その愛を私たちが知って、力を受け、心が内に燃えて、霊的な成長を生んでいくことにあるのです。