2020年8月2日(日) 第一主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 1章2節、26〜27節
神はなぜ人をお造りになったのでしょうか。それは神の本質と深く関わりがあります。神の本質は愛ですが(Ⅰヨハネ4:8)、では、愛とは一体何でしょうか。愛の具体相として「優しさ」、「思いやり」、「親切」などがあげられますが、しかし、これら愛の構成要素は視覚で捉えられるものではないため、それ自体だけ(単体だけ)では、その存在を証明することはできないのです。そこで、神が愛として存在し、愛であり続けるためには、神(主体)の愛を受け取る相手(客体)の存在が必要となるのです。なぜなら、愛とは主体が何らかの優しい、思いやりのある、親切な行為を客体に対してした時のみに視覚化され、そこに愛が実現し、愛の実在が証明されるからなのです。すなわち、愛とは主体と客体との関係性の中でのみ実現されるものであり、その両者の間で分かち合われるべきものであるということなのです。このようなわけで、神が愛である以上、ご自身の存在を存在たらしめるために、ご自身の愛を受け取る相手として人間をお造りになったのであり、また人間に対して具体的な愛の行為を施すための舞台として、天地万物をお造りになったということなのです。
以上のことから、私たち人間一人一人は、ただ偶然に存在しているのではなく、神の愛の受け取り手として意図的に創造されているのであり、神からの愛を受け、それを共に分かち合い、その感動、喜びを証しする者、神の存在とその愛を証明する者として存在していることが分かるのです。