2019年12月8日(日) 第ニ主日第二アドベント礼拝
宣教者 山本弘夫伝道主事
マタイによる福音書10章40~42節
はじめの聖書の言葉は、まず40節の「あなたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」です。イエスの弟子を受け入れることは、イエスを受け入れることであり、さらに父なる神を受け入れることであるとの意味です。
弟子とすれば自分たちがそれほど信頼されていることになりますからしっかりとキリストに従って行こうとの思いが高められます。
二番目は41節の「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」です。
預言者や正しい者とされる立派な人でなくてもその人を受け入れる人は同じ報いを受けると語られます。受け入れるとは、何らかの助けや援助をすることを含みます。私たち普通の人でもそれらの人を助けることで同じ報いを受けるとは、寛大で恵みに富んだ言葉だと思います。
三つ目は、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由でこの小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」です。
キリストの弟子が小さな者と表現されています。フィリピの信徒への手紙2章にキリストの賛歌と呼ばれる言葉が書かれています。キリストの謙卑と被挙です。キリストは神の身分でありながら低く小さくへりくだり人類救済の働きを成し遂げて下さいました。それゆえ神はキリストを高く引き上げたと歌われており、クリスチャンは弟子の末端につらなるものとしてこのキリストの謙遜にならい小さなものとしての思いを忘れたくないと考えます。