飴玉の幻影

2023年8月27日(日) 第四主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 25章7~11節

「人生の大肯定」の境地を、仁宮武夫氏はこう表現しています。
「たしかにお金が入り、美しい女性に好かれ、勲一等になり、新聞に大きい活字で名前が出ることは嬉しいことです。しかし、それが一番嬉しいことか、二番目に嬉しいことか、それによって人間の違いが出てきます。
二人の子どもに飴玉をやると、まず二人で数える。数えてみて多い方はニコニコしているが、少ない方は泣き面をしている。お天気具合が悪いと、少ない方は三十分でも一時間でも泣き通す。まことに重大な問題です。僕だって、おシャカさまだって、飴玉をしゃぶれば、もちろん、おいしいに違いないけれど、そんなことで泣き喚いたりはしません。僕にとって、飴玉のことなんか、実は『どうでもいいこと』だからです。
人生の重大問題は、人間が成長してゆくに従って変わってゆく。飴玉、野球のグラブ、入学試験、就職、恋愛、金儲け、地位…。昔の重大事が『どうでもいいこと』に変わっていきます。だが、いずれにしてもそれらはみんな飴玉です。そして人間はみんな、飴玉の幻影を追って、目隠しをされた馬車馬のように、まっしぐらに人生を走る。
しかし、みんながかくも一生懸命になっている世俗的な重大事が第二義的に思われてくる日がくる。そのとき、人間は本当の成長をしている。そのとき、人間は新しいもっと大きい幸福を見つけだし、新しい幸福に酔うようになっている。曇った日でも、晴れ渡った日でも、この宇宙に生きていること ― それだけでも、じっとしておれないほどの幸福感が湧いてくる。何もかもが喜びの種になる。何を眺めても美しい。木枯らしにふるえている椎の葉の訴える表情も、日光に輝いて深々と呼吸しているその得意な表情も。(中略)大自然にも、人間社会にも美が充ち満ちています。これを眺める心は、幸福でいっぱいです。満員電車の中で足を踏まれてもニヤリと笑い返さずにはいられない。『確かにこいつ、どうかしている。そういう奴はおそらく神様でも不幸にすることは出来ますまい』」。
(仁宮武夫著「宗教と芸術の源泉」より)

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