2022年4月24日(日) 第四主日礼拝
宣教者 山本弘夫伝道主事
マタイによる福音書 18章21~35節
ペトロはイエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」と質問します。
当時ユダヤ教の教師であるラビは、3回までは赦すように語っていましたので7回は大いに寛大ですからペトロは寛大さを褒められるかと思ったかもしれません。
しかしイエスは、「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍まで赦しなさい。」と答えます。490回まで赦しなさいということになりますが、実質的な意味は限りなく赦しなさいという意味でありましょう。
ここでイエスによって天の国のたとえが語られます。
ある王が家来たちへの貸金を精算しようとします。そして1万タラントンという超巨大な借金をしている家来がつれてこられます。家来はひれ伏して「どうか待ってください」と懇願します。王は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにします。
ところがその家来は自分から借金をしている仲間に出会うと捕まえて首をしめ、借金を返すまでと牢に入れてしまいます。
これを聞いた王は自分はあのように巨大な借金を赦したのに赦された本人がわずかな貸金を赦さず借りた人を牢に入れたことを怒り、借金を返済するまでとこの家来を牢役人に引き渡します。金額に換算すると王が赦した金額とこの家来が赦さなかった金額には、6千億円と百万円の差があります。6万倍もの差がありますから王の怒りは当然です。
このたとえ話はイエスの贖いの十字架を通して私たちが神様から与えられている赦しの恵みの大きさと、私たちが人に対して赦そうとしない有様を表わして気づかせ警告をしているのだと思います。