2020年9月13日(日) 第ニ主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 2章4〜17節
創世記1章26節によれば、神はご自分に「かたどり」、ご自分に「似せて」人を創造されたと記されています。それを受けて2章では、ご自分に「かたどった」ことを「土の塵で人を形づくり」と表現し、ご自分に「似せた」ことを「命の息を吹き入れた」と詳述しているのです。前者は人の外面性のことを、後者は人の内面性のことを指していますが、では、この人の内面に吹き入れられた「命の息」とは一体何のことなのでしょうか。
ヘブル語の「ドゥムート」、「似せて」という言葉には、「面影」という意味があります。すなわち、人が生きるようになるためには、神の内面にある「面影」が必要だったのであり、そのために神は「ドゥムート」を人の鼻から吹き入れられたのです。それは「命の息」と称されるほど人を生かすものであり、他の動物にはなく、神と人だけに共通していたもの、すなわちそれは、「自由意志を持った人格」のことであったのです。
私たち人間には、神と同じ「人格」が与えられている。実にこれは凄いことなのです。「人格」は、本来「人核」と書くそうです。この「核」とは種のことであり、そこには「喰えぬ相手」という意味があります。私たちが桃を食する際、果肉は食べてもその種までは食べません。なぜなら歯がボロボロになってしまい、種までは喰えないからなのです。すなわち、私たち人間ひとりひとりに「核」が与えられているということは、相手の人をこちらの都合で勝手に喰い潰したり、自在に操ったりすることは許されないということをいっているのです。それはたとえ神であっても同様であり、私たち人間は、神からでさえも「喰えぬ相手」、「人格」を持つ者として敬意を払われ、尊厳をもって命を与えられ、大切な存在として生かされているということなのです。