古くて新しいちぎり

2020年9月6日(日) 第一主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 14章22〜24節 出エジプト記12章21〜27節

9月に入って初めての主日礼拝を迎えます。コロナ感染危機が継続する中、今回も《主の晩餐》は行えません。高見牧師と私は、共に今年6月に着任してからまだ一度も《主の晩餐》を皆さんと共に与っていないので、待ち遠しく思います。当たり前のように毎月していた《主の晩餐》について、それがどのような意味を持つものかを改めて、一つのキーワードとして『契約』から見てみたいと思います。宣教題に〈ちぎり〉という言葉を入れたのは、『契約』に血の通う意味を込めたかったからです。
イエスは最後の晩餐でパンを裂き弟子たちに与えた後、杯を渡してから言われました。「・・・これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ14:24) 主イエスは地上での最後のときが来たことを察知されて、最も重要な記念行事であった〔過ぎ越〕の祭りの食事を最後の晩餐となさいました。 “契約の血”という言葉があります。出エジプト記12章の、小羊を犠牲にしてその血によって誰も滅ぼされることなく家の人が救われるとされたことに、主イエスは新しい意味を与えました。犠牲の小羊のようにご自分が血を流して死ぬことが、新しい〔過ぎ越〕であり、新しい契約なのだとされました。もはや家が単位ではなく、イエスを信じる人は民族や性別や階級や身分を越えて一人の人間として、神が罪を過ぎ越してくださり、誰でも救われる、ということを表す『契約』とされたのです。この最後の晩餐でのイエスの言葉が弟子たちにとっては、大変ショックなことだったと想像できることが、マルコによる福音書の《主の晩餐》の記述から伺うことができます。その辺もお話ししながら、《主の晩餐》の再開を待つ思いを共有したいと思います。すべての人のために流された主イエスの血です。あなたも私もその中に入っていることを共に感謝したいのです。

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