涙そうそう

2022年4月10日(日) 第ニ主日礼拝(受難週)

宣教者 高見龍介牧師

ルカによる福音書 22章31~34節、54~62節

イエス様の一番弟子とされるペトロでさえも、私たちと同じような失敗を何度も繰り返しています。その極めつけが、イエス様が逮捕された時、「あんな人、知らぬ、存ぜぬ」の一点張りで、主との関わりを全面否定したという行為でした。自分大切さのあまりに主を裏切った姿は、何とも薄情であり、そこには人間が持つ弱さが浮き彫りにされているのです。
聖書は、このような人間の罪を余すところなく描き出し、人間それ自体では、決して愛を貫き通すことができない弱い存在であることを示すのです。しかし聖書は、その人間の弱さだけを断罪して終わるのではなく、否むしろ、その人間の弱さを受けとめ、罪を赦し、なおも励まし、支え、共に歩んでくださる神様がいることを示すのです。ペトロもイエス様を裏切った後、自分の弱さを思い知って「涙そうそう」、一度は絶望に瀕しましたが、しかし、それで終わったのではありませんでした。彼のその弱さの中に注がれた「イエスのまなざし」に触れ、のちに彼は、弱い者から迫害をも恐れない信仰者へと生まれ変わっていくことができたのです。
ペトロの弱さは、私たちに何か「ホッ」とできる部分を与えてくれます。それと同時に、私たちが常にイエス様の「温かいまなざし」の中にあることを悟らせてくれるのです。私たちもペトロ同様に弱い器でしかありませんが、日々「イエスのまなざし」に触れつつ、真の信仰をもつ器として成長して行きたいものです。

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