2020年2月2日(日) 第一主日礼拝
宣教者 山本弘夫伝道主事
マタイによる福音書11章16~24節
イエスは、「いまの時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに悲しんでくれなかった』」と語ります。これは、広場で遊んでいる子どもたちの言葉のようです。ウキウキするような楽しい遊びにさそっても応じてくれなかった。それならばと悲しい葬式の歌を歌っても応じてくれなかった。
これは、バプテスマのヨハネの禁欲的生活を見ては、悪霊に取りつかれていると批判し、イエスが飲み食いすると「見よ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪びとの仲間だ」と批判するあまのじゃくな人々を嘆いた言葉のようです。
イエスの言葉は、「しかし、知恵の正しさはその働きによって証明される」と続きます。「知恵の正しさ」とは、イエスやヨハネの働きです。その働きの結果が良いものであることによって、イエスやヨハネの働きが正しい知恵の現れであることを証明することが出来ます。その働きの結果とは私たちクリスチャンを指しているのではないでしょうか。私たちがどうであるかはイエスやヨハネの知恵の正しさを証明するものとなります。
イエスは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムと悔い改めない町について厳しい言葉で嘆きます。
悔い改めという根本的方向転換によって私たちは、変えられます。行動が変容します。自己中心的な者は人のことを考える者へ、高慢な者は謙遜な者へ、いつもイラだち怒り恨む者は人を赦す者へ、強欲な者は分け合う者へ、不平不満ばかり言う者はいつも感謝する者へ、それぞれ変えられます。