2020年6月28日(日) 第四主日礼拝
宣教者 山本弘夫伝道主事
マタイによる福音書 12章33〜37節
まず、33節は「33木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」です。
取り繕(つくろ)っても、その人の心の中のことが言葉となり行動となって表わされ外に出てくるからです。
イエスは、この前の節で「31だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒瀆は赦されない。32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」と語っています。
神からの言葉、聖霊の言葉は、私たちに届けられています。聖書をとおして、あるいは、良心の声をとおしてなどです。しかし私たちがそれを聴こうとしないとき、無視しつづけるとき、やがてその声を聴くことができなくなります。その声は届かなくなります。それが霊に対する冒瀆であり、聖霊に言い逆らうということではないでしょうか。木にたとえるとその木は悪い木となり、悪い実を実らせる木となってしまいます。この世でも後の世でも赦されることが無いと言われる状態です。神様とのつながりが切れてしまった状態です。
それに対し良い木とはどのような木でしょうか。詩編1編2~3節には、「2主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす。」と書かれています。
35節は、「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」です。
全ては、私たちと神様の関係がどうであるかにかかっています。