2021年2月7日(日) 第一主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 4章1〜17節
創世記に登場するカインは、人類で初めて収穫感謝を神に献げた人物です。しかし、彼の献げた供え物には問題がありました。それは、供え物の良し悪しのことを言っているのではなく、彼の奉献態度に問題があったのです。そのことは、カインとアベル両兄弟が献げた「献物」の中に象徴的に言い表されています。神に顧みられた弟アベルは、血(命)の通った「動物」を神に献げています。そのことは、日々神からいただいていた恵みを心から喜んでいたアベルが、神に対し命のこもった礼拝をもって感謝を献げたということを意味しているのです。しかるに一方のカインは、血(命)の通っていない「穀物」を神に献げています。それは、神からの賜物である地の実り、恵みさえも、自分の労に対する当然の報酬として受け取り、喜ぶことも感謝することもなかったカインが、神に対し命のこもった礼拝で応答することをしなかったということを意味しているのです。カインのこの行為は、神に愛されている者として大変残念な行為になるのですが、さらに残念なことは、その形骸化した礼拝を神に見透かされ、無視されたことに腹を立てたカインが、その自己中心性をさらに肥大化させ、嫉妬にかられて弟アベルを殺すという暴挙まで引き起こしてしまったことなのです。悲しいかな、人類で最初に収穫感謝祭を行った人は、ここでついに人類最初の殺人者にまで身を落とす破目になってしまったのです。
このように自己中心(罪)というものは、あらゆる出来事を通して増長してゆき、肥大化したその罪は、ついに魔物となって人間を飲み尽くしてしまうものなのです。カインもこの罪の奴隷となり、アベルとの関係を破壊して、滅びの道をひた走りに走っていました。しかし、それでも神は彼を見放そうとはなさらなかったのです。神はアベルの番人になることを拒否したカインの番人になることを宣言され、彼に庇護のしるしを与えられたのです。それほどまでに、神はカイン(罪人である私たち)を愛されているということなのです。