2021年2月21日(日) 第三主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 4章17〜26節
創世記4章後半に登場するレメクは、決して褒められた人物ではありません。彼は人生をしくじった人で、決して私たちの模範となる人物ではないのです。
彼の時代、人類の文明・文化が開花しました。それを彼は自らの業績として誇ってしまったのです。その結果、この世の中心・支配者として君臨し、自らの支配に逆らう者には容赦なく裁きを下すという傲慢な生き方に生きてしまったのです。
彼の犯した過ちは2つあります。その1つ目は、神からの日々の恵み・賜物に与って文明・文化を発展させることができたのに、それすらも自らの業績と捉え誇ってしまっていること。つまり、彼自らが神となり、真の神を忘却して退けてしまっているという罪なのです。このことの裏付けとして、彼の物語には、神との交わりの描写が一切出てきません。このことから、彼は神との関係を断絶していたと考えられるのです。そして、自らが神となった彼の錯覚はとどまることを知らず、自分以外の人に対しては、人格無視の抑圧支配に生きてしまったのです。つまり彼は、人との関係をも断絶してしまっていた。これこそが彼の2つ目の罪であったのです。このすべての関係性(神と人)を断ち切る生き方こそ、あの6代前のカインとまったく同じ生き方であるのです。
この創世記4章のカインとレメクの物語で一貫して言われていることは、人には「弱さ」があるということなのです。このレメクと6代前のカインの生き方がまったく同じということは、これすなわち、人間とは、世代や時代が変わろうとも、その罪の本質(自らに心が向き、自らのために神も人も退けて生きようとする心)はまったく変わらないということなのであり、すべての人間には、そのように生きてしまう「弱さ」があるということなのです。さらには、罪の恐ろしさということです。罪は常に心を自分に向けさせ、神の言葉(律法)ですら自分の都合のいいように解釈させます。そしてそれらが、様々な要因を取り込んで肥大化してゆき、自らを神として真の神と人との関係を断ち切らせ、最後には孤立させて滅びに至らしめてしまう。罪とはそのような恐ろしいものであるということなのです。