あわれみはどこまでも

1月22日(日) 第四主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 8章1~10節

今日読む箇所は四千人の人々に食べ物を与えた奇跡の箇所です。あらっ、ちょっと前の6章には五千人の人々に食事を与えた奇跡の話しがあったのに、またなの、と思いますね。そうなのです。でも場所が違います。集まって来た人々も違います。パンの数も違いますし、あまったパン屑の量も違います。でも同じことがあります。それは主イエスが、お腹をすかせた人々をかわいそうだと思ったこと、深く憐れんだという点です。“スプランクニゾマイ”というギリシャ語が両方とも使われています。主イエスは集まって来た人々が食べ物のないまま集まっていることに対して、あわれまれたのです。「はらわたのちぎれる思いがする。」と訳している聖書もあります。イエスご自身の身が痛むほどのあわれみを感じておられるのです。食べ物がなくて群衆がかわいそうだ、とおっしゃる主イエスの言葉に対して、弟子たちの答えはそっけなく、聞こえます。「いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分たべさせることができるでしょうか」と、常識的な言葉しか返していません。ついこの前、男だけで五千人の人々に対して、主イエスが神に賛美の祈りを唱えてパンを裂いて配らせると、全員にパンと魚が行き渡って全員が満腹になったし、余りまで十二籠も出た、という奇跡を体験したばかりの弟子たちです。それなのに、そのことをふまえないこのそっけない鈍感な答えはいったいどうしたことでしょうか。もうあの素晴らしい恵みの出来事を忘れてしまったのでしょうか。その背景に民族差別があることに気がつきます。宗教の違いや民族の違いのために民族が対立して戦争や迫害が現在も起こっています。しかし、神さまの憐れみはわけへだてなくどこまでもなのです。神のあわれみは広く大きく深いことを表すためにイエスは来られました。あなたも私もそのあわれみを受けている存在です。そして神と協働していきます。

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