裏切りの中での最後の晩餐

2024年10月6日
宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 14章10節~26節

 イエスが愛した十二人の弟子たちの一人、ユダの裏切りの中で“過ぎ越し”の記念礼拝が行なわれる聖書箇所を読んでいただきます。この記事の前には一人の女性が主イエスへの惜しみない尊敬と愛を表した行為が記されており、そのコントラストが衝撃的です。ユダについてここでは詳しく語りませんが、ユダの裏切りについては、様々な見方があり、2世紀半ばにはユダの福音書まで作られています。ユダの裏切りは、ユダという特別な悪者がイエスを死に渡した、という見方ではなく、ユダの犯した罪は人間の悲しい罪性を表していると思います。イエスが食事の席で「あなたがたのうちの1人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(18節)と言われたとき、弟子たちはそれぞれに「まさかわたしのことでは」と言い始めたのでした。自分がイエスを裏切るものを持っていることは弟子たち皆が認識していたということになります。

 過ぎ越しの祭りは、毎年行なわれる重要な記念礼拝でした。その昔、エジプトで奴隷状態だったイスラエル民族が、神に従ったモーセによってエジプトを脱出して、新たな地で自由を得て生きることができた感謝を表す記念礼拝でした。イエスはそれを用いて、イエスご自身の独特な記念の晩餐とされたのです。心で信じる、ということだけでなく、“食べる”という、命に必要なことを用いて、主イエスが、〈わたしを食べなさい、わたしの血を飲みなさい、そしてわたしと共に生きなさい〉、と言われたことは、弟子たちにはショックすぎる言葉だったでありましょう。そして、この時が、弟子たちがイエスと共に与る最後の晩餐となりました。そこで行なわれたパンと杯をいただく事は、主イエスとの契約をあらわす「主の晩餐」として、現在から世の終わりを越えて、神の国で生きるときまで続くのです。悲しい背きの裏切りのゆえに死ぬことになったキリストによって、私たちは神に救われ、神と共に生きるという計り知れない恵みが約束されています。驚きと感謝しかありません。

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