イエス・キリストこそ神の家

2024年10月13日
宣教者 高見龍介牧師

出エジプト記9章13節~35節

 不義に生きるエジプト人を「雹の災い」で裁く前日、神は彼らを憐れんで、その災いを予告し、彼らの命が失われることがないようにと「家」に避難することを勧告しました。この神の御言葉を受け入れ、「家」に避難した者たちは命を得たのですが、この御言葉に聞かず、「野」にいて好き勝手なことをしていた者たちは命を失うことになってしまったのです。御言葉に従う者が救われ、従わない者が滅びるということが言いたいのでしょうか。いいえ、それだけがこの箇所のメッセージではないのです。

 神の御言葉に聞かず、禁断の実を食べたアダムの原罪に象徴されているように、本来私たち人間は、御言葉に聞き従うことのできない罪人でしかないのです。すなわち私たちは、不義に生きる者として、神の裁きである「雹の災い」を受ける者でしかなかった上に、さらには神の恩情である「家」への避難勧告までも無視し、「野」で好き勝手なことをしていた罪の上塗りのゆえに、一刀両断たちまちのうちに雹に打たれ、滅ぼされるべき者でしかなかったのです。
 そしてその裁きは、今から二千年ほど前、私たち人類の上に下ったのですが、それでも私たちは、何の被害も受けることがなかったのです。それは一体なぜなのでしょうか。それはイエス・キリストが私たちのために身を投げ出してくださり、裁きに対して無防備な私たちを覆う「家」となって、ご自身の命と引き換えに、神の呵責なき審判である「雹の災い」から、私たちを守ってくださったからなのです。

 イエス・キリストこそ「神の家」、私たちの「避け所」。苦難の時、その中に逃げ込めと聖書は言っているのではなく、もうすでに、イエス・キリストの福音の出来事により、この「神の家」、「神の愛の支配」の中に、私たちは無条件で住まわされているのだと聖書は告げているのです。今、私たちは「神の家」、「神の愛の支配」の只中に住まわされ、守られているからこそ、どんな苦難に遭おうとも、恐れたり、不安になったりする必要がないのです。

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