2024年12月29日
宣教者 高見龍介牧師
ルカによる福音書5章 1節~11節
「信仰」というものを一言で言い表わすならば、「しかし、お言葉ですから」と言ってキリストに従うことではないだろうか。その言葉には、キリストへの全面的な信頼と完全なる服従の思いが込められているのではなく、否むしろ、キリストへの義理人情あるいは疑いや不信といったものが渦巻いているものなのです。
主イエスはシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とお命じになられました。そこには、プロの漁師たちが一晩中働いても、一匹の魚も取ることができなかった虚しい現実があったのです。この状況下、「もう一度、漁をせよ」という主イエスの非現実的な言葉に、シモンは反感と不信感を抱きます。しかし彼は、「せっかくのお言葉ですから」と言って、現実の虚しさ、厳しさ、様々な疑問、不信、葛藤を抱えたままで、敢えて主の御言葉に従い、沖に出て網を降ろしてみたのです。すると、たちまちのうちに、舟が沈みそうになるほどの大漁を得、神が与えんとする大いなる祝福に与ることになったのです。
私たちの信仰も、全面的に神に信頼をおくところまではいかないのです。シモンのように悩み、苦悶しながら、不信の念をもって主に従うのが精一杯なのです。しかし、恵みの主は、私たちの不信仰をはるかに凌駕する愛をもってのぞみ、私たちの生の領域の全てを祝福で満たしてくださるのです。大切なことは、非現実的な主の御言葉に、驚き迷い、疑いながらも、「しかし、お言葉ですから」と言って、主の御言葉に応えていくことであるのです。主の御言葉は、時に厳しい「命令」として私たちに臨みますが、しかし、それは同時に、主から私たちに贈られる祝福の「約束」の言葉でもあるのです。このことをしっかりと受け止め、今後ともひたすら主の御言葉に従っていく者でありたいと思います。