希望が消えたと思った時

2025年3月9日
宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 15章33節~47節

 マルコによる福音書を順番に読んできて、今日は主イエスの死と葬りのことが書かれている箇所を読みます。

 イエスは午前9時に十字架に付けられて、昼頃に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。イエスは裁判で有罪となった罪人として、神から完全に捨てられた状態で息を引き取られました。午後3時でした。通常よりはかなり早く息を引き取られたのです。

 主イエスの死は弟子たちにとって、希望が絶望になったことを意味していました。弟子たちは恐れのあまり皆逃げてしまいましたが、土壇場になったらきっと神の奇跡が起こされるに違いないと、期待をしていたのかもしれません。それは処刑場の人々も同じでした。一抹の希望を抱いていた人々は、主イエスが侮辱を受けて死なれた時、最後の希望の光が消え去ったと思ったことでしょう。

 しかし主の死を目の当たりにした失望の中で、自分が何を成すべきかを考えた人々がいました。イエスと行動を共にして来た女性の弟子たち、ともいえる人々と、イエスを信じながらも自己保身のために公にはイエスに従うことができなかった身分の高い議員のヨセフでした。神はそれらの人々を用いて、復活のご準備をなさるのです。主イエスを信じる人々の深い悲しみと悔い改めの心を神は軽んじられませんでした。誰もが希望を失っている中で、いわゆる直弟子たちではなかった人々を神はお用いになられるのです。神のご計画は着々と進んでいきます。神が下さったイエス・キリストという希望は、絶望になることは決してありません。昔も今も、これからもです。この主イエスに信頼して生きていきます。

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