雨にも負けず拒否にも負けず

2022年2月13日(日) 第ニ主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 6章1〜6a節

イエスは伝道活動を始めて、様々な場所で聖書から神の国を教え、奇跡のいやしを行っていました。ある時カファルナウムから故郷のナザレに帰ってきた
時のことです。安息日になってイエスは会堂で聖書の言葉から教えました。すると人々は大いに驚いたのです。イエスの話に知恵を感じ、また奇跡も見たのでしょう。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と驚き、イエスにつまづいたとあります。
イエスをよく知る故郷の人々は、家族も含めて、イエスの言動を見て聞いても
イエスが神から遣わされた方だと信じることができませんでした。イエスが神の子として生まれることを天使から聞き、体験した母マリアでさえも時を経る中でイエスが神の子であることがわからなくなっていったのでしょうか。あるいは、権力者である律法学者やファリサイ派の人々ににらまれることを怖れたためでしょうか。一方でイエスは弟子たちに、ご自分が拒否されるというその現実を見せることにより、弟子たちが将来経験する、人々の拒否を教えたのかもしれません。
だれもが他者から受入れられて心安らかに人生を送りたいと考えています。けれども現実はそうではないのです。イエスは、最も愛した弟子たちにすら拒否されて、神にも拒否されて全ての罪を一身に背負って死なれるのです。そのすさまじい拒否を受入れることが神の子としての役割でした。しかしイエスが受けた苦しみのゆえに、神に反逆する罪はゆるされていることを弟子たちは体験していくのです。そして雨にも負けず人からの拒否にも負けず、イエスにならって神に従う選び取りを彼らもしていきます。現在の私たちも世の権力におもねらず、神の愛を証しする選び取りができますようにと願います。

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