豊かな実を結ぶために

2025年1月5日
宣教者 高見龍介牧師

マルコによる福音書11章 12節~14節、20節~25節

 受難週の月曜日の朝、イエスは空腹を覚えられたと12節では記されています。きっと朝早くから起きて祈っておられたからこそ、お腹もすかれたのだと思うのです。一行がベタニア村を出てエルサレムに向かう途中、イエスはそこに葉の茂ったいちじくの木があるのを見つけられました。イエスは食べる実がなっていることを期待し、近寄ってみたのですが、そこには一つの実もなっていなかったのです。そこで失望したイエスは、怒ってその木を呪い、滅ぼしてしまったというのですが、しかし、これは本当の話なのでしょうか? イエスは果たして本当に、自らの感情でこのような破壊工作をする方なのでしょうか? いいえ、答えはNOなのです。では、何のためにこのようなことを行ったのでしょうか? 実に、その答えを出すポイントは、いちじくにあるのです。

 いちじく、それはぶどう、オリーブと共にイスラエルでは大変重要な果実でありました(士師記9:
10)。中には7~10mの高木になるものもあり、早いもので5~6月、通常では8~10月に実を結ぶ果実で、いずれにせよ過越祭の頃(4月)には期待できないものであったのです。さらに、いちじくとは旧約の中では、ぶどうと並んでイスラエルを象徴するものであったのです(ミカ7:1,ホセア9:10)。

 ところで、イエスの見たいちじくは、葉を豊かに茂らせていた人目を引く高木であったと考えられるのですが、それは多くの実を約束する葉を茂らせながらも、実際には一つの実も結ぶことをしない偽りの姿で立っていたのです。外見上は豪勢だが、しかし、人々を喜ばせる肝心な中身がなかった。すなわち、このいちじくの木こそが、イエスの時代のイスラエルの姿を如実に表していたものであったのです。当時のイスラエル、それは、見かけは律法を守り、神に対して敬虔、信心深げでしたが、しかし実際には、実となるものが一つもなかった。人々を幸せにする愛の実が全くなかった。まさしく偽善者の姿で立っていたのです。そこでイエスは、14節で唯一破壊的な言葉を発することになったのです。しかし、本当に呪ったのでしょうか? いいえ、やはり答えはNOなのです。木の破壊については言及しておらず、ましてやこれは呪いの言葉ではなのです。では、この言葉は一体何なのでしょうか? 実はこれ、『旧約預言者の象徴的行為』と呼ばれるものであったのです。

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