裕福になるべきか ならざるべきか

2022年5月29日(日) 第五主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 14章 17~24節

アブラムがメソポタミア連合軍を撃破して凱旋した時、ソドムの王とサレムの王の二人が彼を出迎えに来ました。しかし、この時の二人は、それぞれ違う目的でアブラムを出迎えに来ていたのです。ソドムの王は、今回の戦争で捕虜として奪われた、自分の町の人々を取り戻すことが目的で、アブラムのもとにやって来ていたのです。つまり、自分のこと、自分の利益が最優先され、それが彼の行動の動機となっていたのであり、まさしく彼の生き方は「与えるよりは、受ける生き方」であったということなのです。
しかるに一方、サレムの王であるメルキゼデクは、カナンの地に平和をもたらした勇気ある人、アブラムを祝福することが目的で、アブラムのもとに馳せ参じていたのです。彼は王でありながらも祭司であったということからも分かる通り、神の御心に生きることが、常に彼の行動の動機となっていたのです。神はご自身が創造した世界が、愛の支配により常に平和で秩序が保たれた状態にあることを望んでいますが、その神の御心である平和を、今回見事に実現させたアブラムに対し、メルキゼデクは「よくぞ主のためにご奉仕してくださいました!」という感謝をもってアブラムを祝福し、またそのアブラムに勇気と知恵と力を与えてくださった神に対しても、感謝の気持ちを込めて讃美を献げていたのです。この彼の生き方は、まさしく「受けるよりは、与える生き方」なのであり、ソドムの王とは全く対照的な生き方をしていたのです。しかも、彼はパンとぶどう酒までも持ってきて、それをアブラムに提供しており、このことのゆえに、メルキゼデクは霊肉共に最高の祝福をアブラムに与えていたということになるのです。
パウロ先生も使徒言行録の中で言っています。「受けるよりは、与える方が幸いである」(使徒20:35)と。私たちもこの生き方を目指さなければなりません。なぜなら、一見マイナスに見えるこの生き方の中にこそ、本当の幸いと祝福、命があるからなのです。

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