笑いはいかにして生まれしか?

2月26日(日) 第四主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 21章1~8節

創世記アブラハムの物語を学んでいます。創世記21章冒頭には、これまでの不信を悔い改め、神の言葉に信頼を寄せたサラに、念願の子イサク(笑い)が与えられ、祝福に満たされたお話が記されています。しかし、なぜ神の言葉に従い、神の世界に飛び込むと、「本当の笑い」である歓喜と祝福が与えられるのでしょうか?
それは、①神が「アドナイ」の主であるからなのです(1節)。旧約聖書には、神を表現する言葉が4つ出てきますが、神のことを「慈愛の主体」であることを表現したい場合、聖書記者はこの「アドナイ」という言葉を用いるのです。つまり、神は慈愛に満ちたもう方であるから、ご自身のもとに身を寄せてきた者に対し、「本当の笑い」をお与えになるのです。たとえ私たち人間がどんなに不信に陥り、神を小バカにしようとも、神は途轍もないほどの慈愛の主体であるがゆえに、私たちを祝福しようとして、私たちの人生に「笑い」を届けてくださろうとするのです。私たちはこの神の慈愛を知って、ただ神の方へ向き直って生きればよいのです。そうすると、無尽蔵にあふれ出す神の慈愛があなたを包み込み、あなたの願いは聞き届けられ、あなたは喜びで満たされることになるのです。
さらには、②神が「顧み」の主であるからなのです(1節)。この「顧み」は、ヘブル語で「パカード」と記されています。この「パカード」は、神が裁きをくだされる時に用いられる言葉なのだそうです。神が裁きをくだすとは、恐ろしい言葉に聞こえます。実際19章で神の裁きが記されていましたが、このソドムとゴモラへの裁きは、神の言葉に聞き従わない者、人間世界の安楽に浸り、神の世界に飛び込んで来ようとしなかった者たちへの呪いの裁きであったのです。つまり、神の言葉を「あざ笑い」、信頼しないで、罪の中に留まり続けるならば、その行き着く先は虚無と悲しみと絶望でしかないということを言っているのです。しかるに一方、神の言葉に信頼し、罪から解放された者への神の裁きは、「恵み」と「顧み」の裁きとなるのです。最終的に神の言葉に信頼し、罪赦されたサラには、この「恵み」と「顧み」の裁きが行われ、イサクの誕生により、彼女の「子を得たい!」という念願は叶えられ、「本当の笑い」、人生を生きる喜びと祝福が与えられていくことになったのです。

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