究極の孤独者イエス

2021年7月4日(日) 第一主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 3章20〜35節

ご一緒に聖書の言葉を礼拝の中で読むことは、救い主イエス・キリストを知ることであり、永遠の命に至る道であります。病のために来ることができない方々を覚えながら今日も礼拝に参加します。さて、今日は少し長く読んでいただきましたが、その最初と終わりに主イエスの家族のことが書かれています。イエスがどなたなのか一番わからなかったのは幼少時代から一緒に生活した家族だったのかも知れません。新たに家族のようにして一緒に生活した弟子たちもまた、イエスの死と復活を経て聖霊降臨までは、イエスを理解できませんでした。今日の箇所ではイエスの言葉や奇蹟の評判は広く知れ渡る中、エルサレムから律法学者たちが来て、イエスを悪霊の力によって活動していると非難しておりました。イエスは彼らを呼び寄せて、彼らの間違いを指摘されます。その中でご自身が神と同格にある方として、次の言葉を言われます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」 大事なことを述べる前にイエスは「はっきり言っておく」という言い方をされます。原語では“アーメン”が最初に来る言い方です。人の子らとは人間ということですので「アーメン、私は言う。人間が犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」これは、驚嘆するほどの無限の赦しを述べた言葉です。イエスはこの言葉を述べることでご自分がどなたなのかを表しておられます。この言葉に続く29節と共に、歴史の中でどう理解するのか議論が起こった難しい箇所でもあります。イエスは家族や弟子たちや社会から理解されず、神を冒瀆する者、反逆者として裁かれ、すべての人の罪を背負った罪人として、神から見捨てられるという形でその使命を全うされました。究極の孤独を生きた方であります。復活された救い主は、どんな人の罪や苦しみも受けとめることができるお方であることを感謝します。この神に感謝しながら困難な時代を共に生きていきます。

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