2024年11月10日
宣教者 岡村直子牧師
マルコによる福音書 14章32節〜52節
マルコによる福音書を読んできました。このあと主イエスは捕えられて拷問を受け、辱められて、十字架に釘で貼り付けにされるのです。まだまだ苦しみは続きます。しかし、今日読む捕らえられる前の祈りの時が、主イエスにとって、また、父なる神にとって最も辛く苦しい時だったのではないかと思います。
イエスがゲッセマネの園で壮絶な祈りのときを持たれた事が記されています。これまでに弟子たちに見せたことのないイエスの姿や言葉に驚きます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」「…できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように…」「…この杯をわたしから取りのけてください。」どれも人間イエスご自身が正直な苦しみを吐露しておられます。この言葉がここに記されているということは、弟子たちが少し離れたところであってもイエスの祈りの言葉が聞こえていた、ということなのでしょう。彼らが今までに見たことも聞いたこともない苦しげな主イエスの姿、言葉に弟子たちはかなり動揺しただろうと推測できます。それでも弟子たちは眠ってしまうのです。
イエスのこの苦しみの中身はどのようなものであったのでしょうか。愛した弟子たち全てから裏切られ、誰も共にいる人もなく、鞭打ちの拷問を受け、唾を吐きかけられ侮辱されるのです。神の子が罪人となられるのです。罪ある者は神と関わりをもつことができません。神は聖なるお方だからです。罪にまみれた私たち全ての人を救うために、イエスが負わねばならない、完全に孤独な苦悶のときでした。
礼拝の招詞のイザヤ書53章5節にこう書かれています。
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
すべては、神がお創りになった人間を救い、幸いを与えるためでした。このことがあなたの生きる力となりますように。あなたの生涯はキリスト・イエスによって祝福されているのです。自分の心配をしなくて良いのです。私たちに求められているのは、他者の幸いを願い祈り、働くことではないでしょうか。神の完全なご支配が世界にもたらされますように。