2022年11月27日(日) 第四主日礼拝・第一アドベント
宣教者 柏 雅之神学生
詩編 105編8~22節
本日は「私たちに対する神様のお守りとは、一体どのようなものなのか」ということを皆さんとともに考え、分ちあって参りたいと思います。詩篇105篇の8節では、「主はとこしえに契約を御心に留められる」とあります。神様はイスラエルを愛し、アブラハム、イサク、ヤコブをはじめとするイスラエルの先祖や民をとこしえに、そして徹底的に守られると約束されました。イスラエルとは人間を代表したものです。
さて、ところがです。その言葉の直後に、「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされた」と記されています(16節)。御心に留め守られると約束されておきながら、「ことごとく絶やされた」とはどういうことでしょうか。口語訳では「人のつえとするパンをことごとく砕かれた」と記されています。この2つは矛盾しているように思われます。
続いて17節以下では、ヤコブの子ヨセフのことが語られています。「奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ首に鉄の枷をはめることを許された」とあります。ここでも、イスラエルが「杖とするパンをことごとく砕かれた」ように、神様から守られるはずのヨセフには苦しみが与えられました。どうしてですか。理解ができません。
つぎに、本日の聖書箇所からはずれていますが、同じ105篇の24節以降を見ていきましょう。そこでは出エジプト記の出来事について語られています。ヨセフの子孫はエジプトに住み着き、民の数は大いに増えました。しかしエジプト人は新しい王様をはじめとしてイスラエルの民の繁栄を喜ばず、ひどい虐げをしました。その虐待が頂点に達し、民の泣き叫ぶ声が神様に届いたとき、はじめて神様は「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた(出:2・24)」のでした。こうしたなかで、出エジプトという、主による旧約時代で最大の「救い」「守り」の出来事が起こりました。たしかに、主はそのしもべアブラハムへの聖なる御言葉を決して忘れることなく覚えておられました(詩編105・42)。しかし、なぜ虐げが頂点に達し、民の嘆きが天に届く前に神様はその契約を思い出し、救ってはくださらなかったのでしょうか。
さて、このように神様は自分の民を絶対守ってくださると約束され、忘れられることはありませんでした。しかし他方で、神様は「杖とするパンをことごとく砕かれたまい」、「苦しみのかせをはめられたまうことを許し」、「敵の虐げを許されたもう」たのでした。こうしたことを我々はどのように理解すればよいのでしょうか。
日本を代表する神学者・牧師の一人である北森嘉蔵先生は、神様とは、「破壊をとおして守護される」お方であると述べています。神様は自分の民を守られるという約束を絶対に覚えておられ、必ず実現してくださいます。しかしその約束は単純にストレートに与えられるだけではなく、ときに破壊としか思えないような「試み」「試練」をとおして実現されるのです。では、それはどういうことでしょうか。ともに考えていきたいと思います。