真の祈りとは? ふて寝するのはやめましょう!

2024年8月25日(日)
宣教者 高見龍介牧師

ルカによる福音書22章 39節~46節

 「私たちの師匠であるイエスは、不思議な業をする方だ!」、「この方こそ、憎きローマからイスラエルを救う方!」、「この方について行けば、きっといいことがあるに違いない!」、「天下を取れば、右大臣にも左大臣にもなれるかも!」。十二弟子は個々それぞれに期待と思惑をもって主イエスに従っていました。しかし、エルサレムへの道を進んで行けば行くほど、状況は悪くなるばかり…。イエスの口から出る言葉も、「人の子は犯罪人の一人に数えられる」、「人の子は十字架につけられて殺される」、「みんな私に躓く」とネガティブな言葉ばかり…。ユダヤ教当局の動きも慌ただしくなり、「どうも自分たちの先生は逮捕されそうだ…、こんな先生について来てしまって、自分たちは失敗したのではないだろうか?」と、自分たちの期待が裏切られつつある現状に、彼らは失望感を抱き始めていたのです。そんな折、彼らはゲッセマネの園で主から祈ることを命じられます。しかし、自分たちの大願成就が絶望的になった今、悔しさと悲しさから、弟子たちは早々に祈ることをあきらめ放棄します。これが人間がもつ「祈りの姿勢」であり、このことを、ルカは「悲しみの果ての眠り」と表現しているのです(ルカ22:45)。つまり、人間の側の熱心さや功績をもって神に迫まり、自分の思惑、自分の要求の受け入れられることのみを願い、それらが聞き入れられなければ、悲しみつつ「ふて寝」をし、祈りを放棄する、これが「人間の祈り」であるとルカは語っているのです。このようなわけで、「人間の祈り」の本質には、人間主権、神を意のままに操り、従わせようとする主客転倒の態度が存在するがゆえに、それらの祈りを「真の祈り」と呼ぶことはできないのです。

 私たちがなすべき「真の祈り」とは、主イエスがゲッセマネの園で「血のごとき汗」を流しながら祈られた、あの祈りなのです。「父よ…してください。しかし、御心のままに…」。たとえ我が願いは聞き入れられずとも、愛の御神のご計画に信頼し、全てを委ね、神の意志への服従を祈ること。これが「真の祈り」と呼ぶべきものなのです。このような「神によって自分を立てる」という自己本位の信仰から、「自分を通して神が自らを立てたもう」ことを願う信仰への飛躍が起こる時、神は御心(人間を恵みによって喜びで満たし、愛によってその生命を輝かせ、祝福したもうご計画のこと)を行われ、私たちに真の祝福と救いを与えてくださるのです。

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