“目を覚ましていなさい!”神の言葉は滅びない

2024年8月18日(日)
宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書13章14節~37節

 今回は8月4日に語らせていただいた“終末”の怖い話の続きです。主イエスがエルサレム神殿崩壊を予告したことから終末の話になり、イエスは具体的なことに触れながら、苦難が来ることを覚悟せよ、と伝えました。今回はイエスは旧約聖書の言葉を引用して、これらのことは起こるべくして起こるが、救い主が再臨される約束の希望を告げています。歴史の中で終末とも思える悲惨なことはいくつも起こりましたが、未だ終末は来ていません。即ちイエスの言葉は、今の私たちへの言葉でもあるわけです。

 今日、注目したいのは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(31節)
と「目を覚ましていなさい。」(33節, 37節)というイエスの言葉です。
イエスはこの後、死に赴かれますので、マルコ福音書においてはこの言葉が主イエスの弟子たちや後の全ての人々への最後の激励の言葉となりました。「わたしの言葉は決して滅びない」とイエスは言われます。神が人の生死を越えて全てを支配なさる方であることを表す言葉です。しかし、それはどのように証明されるのでしょうか? 人に体験され、証明されてこその神の言葉ではないでしょうか。その辺も考えてみたいと思います。

 神の側の在りようが、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」であるのに対して、人の在りようが「目を覚ましていること」です。イエスは留守をしている主人の帰りを待つ僕たちの姿にたとえておられます。ここに教会の姿を見ることができます。

 マルコ福音書の終末に関する言葉を、マタイ福音書24章12節では「愛が冷える。」とイエスは表現しています。ヨハネ福音書ではイエスが死ぬ前の告別の言葉として、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15章17節)と言われました。終末の恐ろしさとは、自分のことだけで他者を思いやれなくなることだ、とイエスが言われたことに心を留めて、教会が在る意義を考えます。

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