生命よ憧憬せよ!

2025年1月19日
宣教者 高見龍介牧師

マルコによる福音書3章 1節~6節

 マルコによる福音書3章1節~6節には、ある安息日の会堂における人間模様が記されています。まずそこに居たのが、片手の萎えた人でありました。彼は生活を支える利き手が不自由であったため働くことができず(ルカ6:6)、生活難から不安と苦悩を抱えていた人でありました。次にその場に鎮座していたのがファリサイ派の人々でありました。彼らは常に会堂の上席に座り、誤りを教える者や正しい道から人を誘惑しようとする者を取り締まっていた宗教家であったのです。彼らは、日頃より数々の律法破りをするイエスに憎しみを抱いていたため、今回そこに座って虎視眈々とイエスを陥れる機会を狙っていたのです。すると会堂内に片手の萎えた男がいるではありませんか。彼らはその男に白羽の矢を立て、イエスをはめるための道具として利用することにしたのです。この時の彼らには、その男が抱えていた苦悩や不安に、思いを馳せることなどは一切ありませんでした。むしろ彼らの心の中にあったのは、憎っくきイエスを陥れることだけ…。彼らは宗教家でありながらも、人命を尊重するどころか、男を非人格者扱いし、その存在を抹殺していたのです。

 そこにイエスが入ってこられ、人々の注目を浴びることになったのです。では、その時イエスに注がれた視線とは、一体どのようなものだったのでしょうか? それは「冷ややかな視線」であったのです。「さあイエスよ、どうする? お前さんは誰にでも優しく評判もいいから、どうせ治すのだろ!しかし治せば、神の律法に違反することになるぞ!」との悪意に満ちた視線です。フランスの哲学者サルトルは、「人々の冷たい視線のただ中に立たされる時、人はそこに地獄を感じる」と言っています。するとこのユダヤ教の会堂は、地獄そのものだったと言えるのではないでしょうか。本来、神の愛に触れ、喜びに満たされるはずの安息日の会堂が、冷ややかな悪意に満ちた視線で地獄のようであったというのです。これは一体いかなることなのでしょうか? 本来、パラダイスであるべき安息日の会堂をパンデモニアム(伏魔殿)へと変貌させてしまったものとは…。それは、まさしくファリサイ派の人々の「罪」、人の世に巣食う「罪」であったのです。しかし、主こそは、このような絶望世界の中にこそ入ってこられ、私たちを救う御業をなしてくださる方なのです。

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