期待しているからね!

2023年1月15日(日) 第三主日・成人感謝礼拝

宣教者 高見龍介牧師

ヨハネによる福音書 21章15~19節

本日の礼拝は「成人感謝礼拝」です。世代が変わったせいでしょうか、ここ数年は落ち着いてきていますが、おおよそ十数年前まで、成人式の式典で大暴れする若者がいたことを、みなさんは覚えていらっしゃるでしょうか。彼らは酔っぱらった勢いで壇上に駆け上がり、乱痴気騒ぎをくり返して式を妨害していましたが、私自身、その稚拙な行動を見た時、「他にエネルギーを持っていくところはないのだろうか?」と感じ、開いた口が塞がらなかったことを記憶しています。それにしても、なぜ当時の若者たちは、そのような身勝手な行動を起こしたのでしょうか?
その要因の一つに、この世の業績主義社会を挙げることができます。この世の能力至上主義社会が彼らの居場所を奪ってしまっていたと考えられるのです。勉強ができなかったり、スポーツができなかったり、これと言って取り柄がないと、その人自身の存在が軽視されがちになるのです。人間、自分の存在が軽視され、顧みられないほど辛く悲しいことはありません。また「あなたは落ちこぼれ」というレッテルを貼られ、そのコンプレックスを抱えたままで生きていくことにもたいへんな苦しみが伴うものなのです。そこで自らの居場所を失った彼らは、手っ取り早く逸脱行動を起こすことで、自らの存在を誇示しながら、愛の足りないこの世に対し、一種の抵抗運動をしていたのだと受け止められるのです。このようなわけで、人間存在の軽視・否定のあるところに本当の平和は存在しないのであり、そこには軋轢のみが生じてくるものなのです。
これに対し、人間を真に生かすのは、存在の肯定・承認・受容・尊重であるのです。イギリスで活躍した劇作家のバーナード・ショーは、「人間というものは経験によって生きるのではなく、期待によって生きるものである」と言われました。神は取るに足らない私たち人間の存在を、ご自身の愛のゆえに、肯定・承認・受容・尊重してくださっているばかりか、なおその上に、大きな期待までもかけてくださっているのです。この恵みの事実を知る時、私たちはぐれたり騒いだりする必要がなくなるのです。本日は、この恵みの事実をペトロの生涯から学んでいくことにしたいと思います。

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