怪談話よりも怖い“終末”の話

2024年8月4日(日)
宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書13章1節~13節

 暑い日々が続く中、お元気でしょうか。今回の宣教題を「怪談話よりも怖い“終末”のお話」といたしました。怪談はその場限りの怖さですが、聖書の今日の箇所は、誰もが避けて通れないことで、いつだかわからないけれども、確実に起こるで、自分に関わる怖いことです。けれども怖いだけに終わりません。それには意味があります。神はいつも必ず救いと希望を与えて下さいます。

 さて、主イエスは死を覚悟して弟子たちと共にエルサレムに入り、ご自分に敵対する様々な人々と対話を重ねる中で神の国を教え、神の前に悔い改めるように導きました。教えを終えてエルサレム神殿を出る時に、弟子が神殿の偉大さ壮麗さに感嘆の声をあげたのです。その言葉に対して、イエスは神殿の崩壊を予告されます。実際に紀元70年にローマによって神殿は崩壊しましたが、それは神の新しい世界が来るための一歩になりました。しかしそれは“終末”ではありませんでした。

 3節からイエスが弟子たちに語られたことは、“終末”、つまり世の終わりのことについてでした。弟子たちがそれはいつ起こるのか、どんな予兆があるのかと尋ねました。イエスが語られた内容は、まさに現代のこの世に起こっていることだと気付きます。救い主だと名乗る人々が表れ、戦争の騒ぎやうわさが起こり、国同士が敵対し、地震や飢饉が起こると言います。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子による親殺しが起こるというのです。人間関係の崩壊です。そしてキリストを信じる人々は、やがてイエスが捕えられるように、法廷に引き出されて、打ちたたかれるのだとイエスは予告されます。しかもそれはいつなのかは誰も知らされないのです。

 イエスの死、そして復活の出来事が起こってから2000年も経ちますが、まだ“終末”は来ていません。産みの苦しみをずっと経験している世界に私たちは生きています。
自分が生きている時に終末がくるのかもわかりません。書かれている内容は怖いことばかりで、到底自分が耐えられるとは思えません。大切なことは、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)ことです。そのために神はキリスト教会を、私たちを、用いられるのです。私たちは自分の心の平安や幸いのためだけにキリストを信じているのではないのですね。私たちをとおしてキリストによって救われる人々がいます。キリストを自分の言葉で証しすることを聖霊が助けて下さるのです。怖い時代が来ても、神はキリスト者を用いて福音を前進させます。あらゆる民に宣べ伝えられるために私たち教会を、キリスト者たちを用いられるのです。キリストの愛ゆえに、最後まで耐え忍ぶものになっているからです。そう信じます。

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