必死になる恵み

2022年1月30日(日) 第五主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 5章21〜43節

皆さん、体調は大丈夫でしょうか。コロナ感染者が激増する中、オンラインまたは書面で礼拝することができてありがたく思います。今日はマルコによる福音書の続きからで、長い個所を読んでいただき恐縮でしたが、一つの流れの中にある記事です。
命の危機が迫っているある女児の親が必死にイエスに助けを求めて現場に駆けつけるという状況の中、一人の病を負った女性が間に入ります。彼女も必死に癒しを信じながらイエスの衣に触れたことで、イエスがその女性のことで時間を費やし、とうとう女児の命が助かりませんでした。しかし、それで終わりにはならなかったのです。イエスは言われます。「おそれることはない。ただ信じなさい」。
一方で病のために社会活動から除外され、財産の全てを失った女性の必死の思いも空しく終わることはありませんでした。
ところで、イエスがこの女性の問題を公になさったことにひっかかる向きもあるでしょう。非常にデリケートな個人情報に属する事柄です。なぜイエスはこの女性を見せ物にするかのように公に広げたのか。彼女がいやされたままそっと何事も無かったかのように解放してあげなかったのか。イエスのなさったことはこの女性のその後の人生を最善にするためのものだったことがわかります。そして、一足違いで死んでしまった女児をも主は救われるのです。神にしかできないことでした。
この女性と女児の親の姿は必死です。脇目も振らずにただイエスにすがる姿、
その心を主イエスはしっかり受けとめてくださっていました。イエスがその後十字架刑に服されたからこそ、主イエスは復活されて目には見えない聖霊としてどんなに多くの人々の願いも同時に受けとめて導いてくださることができるのです。
今でも必死に祈る人々の願いを主は決しておろそかにはされません。
神は時を司る方。自分の思い通りになることではなく、神の助け、神の救いはきっとあると信じる信頼の心を育てられていきたいと思います。

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