帰ってしまったユダヤ人

2023年5月7日(日) 第一主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

ルカによる福音書 17章11~19節

ルカによる福音書17章11節以下において、主イエスは「10人の重い皮膚病者」を癒されています。癒された10人のうち9人がユダヤ人で、残りの1人はサマリア人でしたが、このうち重い皮膚病と共に霊的にも癒され、真の救いを得たのはサマリア人ただ一人だけであったのです。彼らは主イエスより同じ御言葉をいただき、同じようにその御言葉に服従して、共に肉体的な癒しの恵みを体験したのですが、ではなぜ、ユダヤ人たちだけが霊的な救いに与ることができなかったのでしょうか?
実は13節にある彼らのイエスに対する祈りは、イエスを救い主と信ずる信仰から生まれたものではありませんでした。それは、彼らがイエスのことを「先生」と呼んでいることからも分かるのです。ギリシャ語で「エピスタテス」と記されたその言葉には、「首長」という意味がありますが、そこには全く「メシア」、「救い主」という意味はないのです。つまり、彼らはイエスのことを愛と憐れみの神、救い主としては見ておらず、単なる律法の教師として捉えていたために、主に心からの信頼を寄せるまでには至っていなかったということなのです。さらには、彼らが「遠くの方に立ち止まったままで、声を張り上げていた」ことからも主への信仰が存在していなかったことが伺い知れるのです。本来、近づいてきたイエスを愛の神として認め、彼に全幅の信頼を寄せるのであれば、一目散に駆け出して行ってもよかったはずです。しかし、彼らはイエスに近づいて行こうとはしませんでした…。それは、彼らが律法によって救われようとしていたからなのです(彼らが遠く離れていたのは、レビ記13章にある規定をかたくなに守っていた証拠であるのです)。彼らの心の中には、「重い病いの中にあって、いま懲らしめられ、苦難の中にあるが、それでも律法を守り、いい子にしていれば、きっと神は助けてくださるに違いない」という打算的で駆け引き的な思いに支配されていたがゆえに、イエスに全幅の信頼を寄せ、身を委ねていくことをしなかったのです。結局、彼らは病いの癒しを自らの功績(律法を遵守した当然の結果)として受け取ったため、神の絶大なる愛と憐れみに気づくよしもなく、霊的に救われることがなかったということなのです。

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