小バカにされた神様

2022年9月4日(日) 第一主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 17章15~21節

創世記17章において、神はアブラハムの妻サライに対してサラへの改名を命じておられますが、これには一体どのような意味があるのでしょうか。サライには「徒労」とか「嘲笑いの的」というネガティブな意味があるのだと言われています(NEB訳聖書)。この訳に従えば、彼女の以前の人となりが見えてきます。サライは「子孫を与える」との神の約束に信頼せず、神を排除し、自らの画策によって女奴隷のハガルに子を産ませていたのです。しかし、そのような神への不従順な生き方により、彼女は一家を破綻させてしまったのです。サライとハガルの間には仁義なき女の争いが勃発し、陰湿ないじめに耐え切れなくなったハガルは、ついに生まれたばかりの子どもを連れて家を飛び出してしまったのです。結果的に世継ぎは与えられず、財産にも損害が生じ、家庭内は以前の状態よりも悪くなってしまったのです。名は体を表すと言いますが、まさしくサライがやったことは「徒労」に終わったのであり、人々の「嘲笑いの的」になったのです。
しかし、全能の神はこのような身勝手な思いに囚われ、神を排除して罪に生きるサライさえもお見捨てにはならなかったのです。神はサライに捨てられてなお、2つの約束を与えてくださいました。その1つ目が、「彼女を祝福し男の子を誕生させる」という約束であったのです。神を捨て傲慢に生きたサライでしたが、それでも神はそのように歩まざるを得なかったサライの子のない苦しみ、辛さに寄り添ってくださり、その痛みに共感してくださったがゆえに、彼女を断罪することもなく、その痛みからの解放を約束してくださったのです。2つ目は、「彼女を祝福し諸国民の母とする」という約束です。これはサライが「徒労・嘲笑いの的」からサラ「王女」になることを意味しています。つまり将来的に彼女は、アブラハムによる世界救済を助け、全ての国民に救いをもたらす命の母となることが約束されているのです。これは以前の彼女の徒労の生き方からしたら、ずいぶん名誉と生きがいのある生き方になるのではないでしょうか。あれだけの罪を犯し、本来、その存在価値を否定されてもやむを得ないサライであったのに、その存在を消すことなく肯定し、なおこれだけの大きな使命と名誉を与え、彼女を高めてくださる神。これは法外な恵みであると言えるのではないでしょうか。このようなわけで、罪に生きた彼女に一切の責任を負わせることなくその罪を赦し、なお、彼女の痛みに寄り添いつつ、彼女に解放の恵みを与えよう、彼女の価値を高めようとしてくださる神の約束を聞いて、アブラハムは大いに感服した。それゆえ彼は17節でひれ伏し、神が与えてくださるこの大いなる恵みに感謝を献げているのです。

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