夜と朝の間に

2020年7月12日(日) 第ニ主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 1章1〜5節

神は、光(昼)と闇(夜)を創造されました(創世記1:3~5)。また神は、「地にある限り…昼も夜もやむことはないであろう」(創世記8:22)とも言われています。すなわち、私たちの人生には、順光に照らされた「昼」もあれば、不安と戦慄におののく苦難多き「夜」もまた存在することを聖書は語っているのです。それにしても、なぜ神は苦難の象徴である「夜」の存在を許されたのでしょうか。それは、大切なことは「夜」の中でこそ知らされるからなのです。
「夜」、大きな恐ろしい暗闇の中にあった時、アブラハムは神からの祝福を受け、神を信じ、契約の民として歩み始めることになりました。またイスラエルが苦役を強いられていたエジプトから脱出し、葦の海を渡って奴隷から解放された時も「夜」であったのです。その際、主は寝ずの番をされ(出エジプト12:42)、葦の海では「夜もすがら」、一晩中、風を送っていたというのです(出エジプト14:21)。これらの記述は、私たちの「夜」である苦難のただ中にこそ神はいまし、そこで私たちは神と出会い、そこで神の偉大なる救いの御業、恵みを体験することによって、神の真実なる姿を知らされていくことを示しているのです。
ところで、ユダヤ人の一日の数え方は独特です。夕に始まり、夜を突き抜けて朝を迎え、そしてその日の夕に終わるのです。5節にある「夕べがあり、朝があった」がそのことを示していますが、なぜ彼らは夕から一日を数え始めるのでしょうか。それは、上記の体験から「夜」を忌避しようとは考えないからなのです。むしろ、苦難の「夜」の中にこそ神の助けがあることを確信するがゆえに、彼らは夕に向かってたじろがずに進み、夜と朝の間に働かれる神に信頼して、希望の朝を待ち望もうとするのです。

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