右向け左

2020年10月18日(日) 第三主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 2章18〜25節

創世記2章で、神はアダムに「ふさわしい助け手」を与えています。アダムの孤独を癒し、交わりを通してアダムに喜びを与える、「ふさわしいパートナー」とは、一体どのような人のことをいうのでしょうか。
「ふさわしいパートナーとは、同じ価値観を持つ人」と一般的には考えられがちです。人間関係を円滑に進めるためには、同じ考え方や思想を持ち、趣味や嗜好を共有できる人がいいと、つい私たちは考えてしまうのです。しかし聖書では、そのようには語られていないのです。2章18節の「彼に合う助ける者」の「合う」という言葉は、口語訳では「ふさわしい」と訳されていますが、ヘブル語原語では「ネグドー」という言葉が用いられています。それは、「真向いの、反対の」という意味であり、つまり、アダムとは全く正反対の異質なる者こそがパートナーとしてふさわしいと語っているのです。では、なぜ考え方が違う人が、ふさわしいパートナーになり得るのでしょうか。その理由として、「人はよく間違った判断をくだしてしまうから」ということが挙げられるのです。夫婦が常に同じ考え、同じ価値観でいると、正しい判断をしているうちは問題ないのですが、間違った判断をくだしてしまった時、それを止める人がいなくなります。もしその判断が滅びに至るような致命的なものであった場合、どちらかの「右向け右」の号令で、両者がそろって滅びの方向に堕ちて行ってしまう恐れがあるのです。つまり、人を滅びから救い、正しい道に歩ませるために、神は敢えて異質なる者を人に与えられているのです。また価値観の異なる者との関係の構築は、血縁や共通の価値観を持つ人のみを愛する「本能的な愛」を越えた、他人や違いを赦しと愛をもって包み込む「人格的な愛」がなければ、決して築き上げることはできないのです。すなわち、動物的「本能的な愛」から、神と同じ「人格的な愛」へと人を成長させるためにも、神は敢えて異質なる者を与えられたということなのです。

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