光の子として生きる

2019年12月15日(日) 第三アドベント合同礼拝

宣教者 松見享子先生

エフェソの信徒への手紙5章8~9節

聖書には、闇に覆われて混沌としていたこの世界のはじまりの様子が描かれています。神さまが「光あれ」と言うと、そこに「光」が生まれました。「光」は神さまによって創造されました。 この時使われている「創造する」という言葉は、私たちのイメージとはちょっと違います。それはちょうど、様々な色の絵の具が混ざり過ぎて真っ黒に濁ってしまった水に手を突っ込んで、まず赤だけ、次に青、黄、緑という具合に、本来の色を一つ一つ取り出して元の色と水に戻す様子を意味するのだそうです。まったく何もないところから光を生み出すのでも、暗闇の外側から光を持ってくるのでもありません。今は濁って汚れているようにしか見えなくても、そこには必ずきれいな色が隠れていることを信じ、自らが汚れることもかまわずにその中にザブンと手を入れてそれを解きほぐして本来の姿に戻される方、それが聖書の神さまなのです。
聖書は私たちを「光の子」と呼び、その呼び名にふさわしく歩きなさいと励まします。けれども私たちの内側は、いつもキラキラときれいな色ばかりというわけではありません。様々な出来事を経験をするうちに、まるで闇のように暗く黒く汚れてしまい、自分からも他の人からも、その中に光輝くものを見つけることなんて到底できないと思える時があります。私たちの目には闇は最初から闇であり、黒は最初から黒。それ以上変わるはずがないように思えます。もはや自分ではどうしようもない、そんな闇のような心。しかし、自分自身も含めて誰一人、そこに「光」があるということを信じられなくても、神さまだけは、どんな人の中にもキラキラ輝く「光」が確かにあることを信じて決して諦めることがありません。ご自分が汚れることも気にせず、その闇の中に分け入って格闘し私たちの心の「光」を取り戻してくださるのです。
神さまは、イエス・キリストの十字架によって私たちへの愛を示し、私たちの闇の中にその手をザブンと差し入れてくださり、「光」を取り戻してくださいました。その愛に応えて神さまが差し出して下さった手をこちらからも手を伸ばして握り返すこと、それが「光の子」として歩む生き方、信仰の始まりなのです。

 

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