何しに来たの?

2022年10月9日(日) 第二主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 18章16~33節

 

創世記18章に登場してくる3人の旅人(主と主の使い)は、一体何の目的があってアブラハムが住んでいた地を訪問したのでしょうか? それは罪にまみれたソドムとゴモラの町を滅ぼすためであったというのです。エゼキエル書16章49節~50節にはこう記されています。「お前の妹、ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとはしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである」と。つまり、①豊かさを享受しながらも、それらの恵みを自己独占し、貧しい人たち、弱者を顧みなかった罪。②忌まわしい行い、性的不道徳を行って秩序を乱した罪。神はこれらソドムの人たちの愛なき生き方、罪を憎んだがゆえに、彼らを滅ぼしに来たというのです。
この恐ろしい神の裁きの宣言を聞かされたアブラハムは、国民の父としての自覚のもと、ソドムとゴモラに住む人々のために「とりなしの祈り」を献げます。この後、正しい人の数を巡って、神とアブラハムとの間のやり取りが続きますが、たった一人でも正しい人がいれば、正義の神はその町を滅ぼさないというのが、その交渉の最終的な結論となったのです。それはエレミヤ書5章1節でも「エルサレムの通りを巡り よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか 正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」と言われているとおりなのです。
ところで、私たち現代人の現実はどうなのでしょうか? 神の存在、神の言葉は退けられ、人間の言葉による自己主張、責任転嫁、ウソ、偽り、暴力がまかり通りっている現実。ローマの信徒への手紙3章10節に記されているとおり、「正しい者はいない、一人もいない」のが現実なのです。現代文明社会の快適さの中に埋没し、弱い者を顧みず自己中心に生きる私たち…。それはまるでソドムとゴモラの町の人々のよう…。つまり私たちは、この後詳述されているソドムとゴモラの如く、硫黄の火によって断ち滅ぼされなければならない運命にあったのです…。しかし、全能の神は私たち人間を一人残らず愛し、慈しみ、何とかして全ての人を救いたいと意志されたがゆえに、唯一の正しい人、イエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったのです。かくして滅ぼされるべき私たちの命は、この正しい人の十字架の贖いにより、罪が赦され、神の愛の支配の内にあって永遠に生かされていくことになったのです。

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