2024年10月27日
宣教者 高見龍介牧師
創世記35章 9節~22節b
詩編92編6節では、主の「御業」の配慮の深さが讃美されています。主が私たちに為してくださる「御業」とは、「救い」、「守り」、「祝福」などのポジティブな恵みの「御業」だけではなく、私たちの視点を転換させるための「試練」、「苦難」などのネガティブな「御業」も含まれているのです。それゆえ、この詩編92編の作者は、主の「御業」はたいへん奥が深いと歌っているのです。
世の人々の大半は、人生というものを自分の尺度(視点)から展望し模索しようとします。彼らの人生におけるテーマは、「自分は人生に何を期待するか?」であり、生涯を通じて、お金持ちになること、名声を得ること、健康であり続けることを期待し生きようとするのです。このような人々のことを「欲望価値」に生きる人々と呼ぶのですが、彼らはお金を失ったり、恥を被ったり、病気になったりして、それまで追い求めていたものが全て失われると、途端に落胆、絶望して、犯罪に走ったり、自らの死を選ぶケースさえあるのです。
一方、人生を「役割価値」に置いて生きる人、すなわち「宇宙は自分の人生に何を期待しているのか?」という、宇宙(神)からの視点に立つ人は、自らの賜物をもって、人生をどのように生きるのかを模索するのです。このような人は、たとえお金や名誉を失い、健康が損なわれるという、この世的な不幸が襲ってきたとしても、その試練の中で宇宙的視点に立ち自分の役割を模索、追求し続けることによって、平安で微動だにしない人生を完歩することになるのです。そして、この「役割価値」を見出して生きたのが、詩人で画家の星野富弘さんなのです。彼は体育教師でありながらも不慮の事故により肢体不自由になり、一度は人生に絶望し、もがき苦しんでいたのですが、子どもの頃、川の流れに逆らってもがくことで溺れかけた時のことをフト思い出し、これ以上もがくことをやめ、川の流れ(宇宙の流れ)に身を任せてみたのです。すると、自分の視点から見た人生(欲望価値)は終わりでも、神が自分に期待してくださっている人生(役割価値)はまだ閉ざされていないことに気づかされ、視点の転換が与えられたというのです。彼はそれから自分にできること、賜物を模索し、ついに詩や絵画を通して、自らの手足は不自由でも、神の手足となって世界中の人々に神の愛を証しするという偉大な働きをすることになっていったのです。彼の作品は、今でも世界中の人々に大いなる感動と喜び、励ましと勇気を与え続けており、そのことは、「役割価値」に生きることこそが人生の目的であり、そこに真の平安と喜び、真の生きがいがあることを啓き示しているものなのです。
人生、神からの祝福もあれば苦もあります。しかし、人生の苦は、決して無用の長物なのではなく、「欲望価値」に人生を見出そうとする私たちの視点を、人生の本当の意味である「役割価値」へと転換させるために、神が与えてくださるところの恵みの御業であるのです。それゆえ、人生の苦を恐れることなく享受し、視点を転換して、神の支えを受けながら、神の期待に応えていく人生を完歩して行こうではありませんか。