予想外のイエスの姿と人々の声

2025年1月26日
宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書15章 1節~15

 マルコによる福音書の続きを読んでまいります。今日の箇所は、イエスがローマの総督ピラトによる裁判を受ける場面で、ピラトとイエスの対話とピラトとその場にいた群衆と呼ばれる人々との対話が記されています。祭司長や律法学者たちユダヤ教のリーダーたちは、イエスを亡き者としてしまうことで一致していました。彼らは巧みな知恵をもって、合法的にイエスを処刑することを画策したのでした。イエスがユダヤ教においては神を冒瀆(ぼうとく)した罪で死刑にあたるとし、支配者のローマ政府にとってはローマに反逆するユダヤ人の王として死刑になることを望んだのです。>

 ローマから派遣されていた総督ピラトは、裁判の席でイエスに会って尋問をし、イエスが自己弁護をせず、命乞いもせずに黙していることを不思議に思ったとあります。イエスは無罪であると彼自身は思っても、それをくつがえすことはできませんでした。祭りの時には、恩赦の慣習があり、群衆はイエスではなくバラバという暴動と殺人の罪で捕らえられている犯罪者を釈放することを選びました。このことは祭司長や律法学者たちが群衆を扇動したからだと書かれていますが、人間の画策をはるかに超えた神のご計画のうちのことだったのです。罪人をゆるすために救い主が死ぬ、ということを図らずも表していることでした。人々が、自分たちが思うように知恵をもってやった、と思っていることは、実は神がそれを用いられたからでした。全ての人の罪を背負って死ぬことは、救い主の使命だったからです。>

「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは 私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章4節、5節)

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